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宍倉先生

留学の矢先、崩壊する救急体制そして宍倉病院の経営危機

——宍倉病院に戻る前後に、留学も計画されていたそうですが。

当時はがんセンターで遺伝子の研究をして博士号を取り、ポスドクとしてまだ勉強したいなとも考えていました。実はアメリカのピッツバーグ大学にオファーを出して、研究室も決まり、「よーし行くぞ!」というところまで話は進んでいました。
でもその話を父親にすると、なにやら神妙な面持ちで「この地域はいま大変だぞ」と…。
聞けばこの地域の医療が疲弊して救急体制は崩壊寸前、その上、宍倉病院は経営が傾いて大赤字を出していました。外にいると自分の生活が中心で気がつかないのですが、自分の病院と地域は大変なことになっていたんですね。これには本当にショックを受けました。私以外にこの地域と病院を診てくれる医師がいれば別ですが、医療過疎地にはそのなり手もいません。これではとても留学どころではないですよね。

——まずは宍倉病院の再建が急務ですね。

常勤医師は高齢の院長だけで、後は大学病院から日替わりで医師の派遣を受け、病床稼働率も低いものでした。また、検査や手術も積極的に行っておらず、重症症例は大学病院などに紹介してしまっており、職員全体にもほどほどの医療を提供すればいいやという雰囲気が蔓延していました。
これらを改善し、病院を建て直すために掲げた方針が三つあります。
ひとつは、基本的に地域のために必要な医療を行う、二つ目は、遠くまで行かなくても身近で高度な医療を提供する、そして三つ目は、救急をできるだけ断らないということです。これは昔からの私のポリシーですが、“必要とされるものは絶対になくならない”と思っています。
その頃は病院にとって最低限のこともできていなかったので地域に必要とされていませんでしたし、だから赤字になっていた。
では、病院にとっての最低限とはなにか?
それは、困った時に役に立つ、頼りになるということですよね。まずは、信頼してもらうために、職員や地域の住民が持っている「宍倉病院の認識を変えたい、変えなければ!」と強く思いました。しかしながら当院には、例えばレーシックのようなそれだけで患者さんが呼べるような“売り”はない。
そこで、ひとり一人の患者さんを丁寧に診察するなど一般診療の質を上げることを意識し、数多くの患者さんを診ていきました。加えて、救急患者さんの受け入れも積極的に行いました。
これは理想論ではなく、受け入れなければ経営が危ない状態でしたし、病院としての意義もないと感じて必死でやり続けました。

病棟

——基本的な対処ですがどれも重要なことですね。

これが功を奏し、私が来た翌年から2〜3年をかけて徐々に黒字傾向になっていきました。
ですが、一難去ってまた一難というか、楽をして経営は上向きませんね。
患者さんが増えたということは、その分職員には負担がかかります。業務が多忙になって、残業も増えていきます。そうなると「なぜそこまで頑張らなきゃならないんだ」という声が病院内部から挙がり、ついてこられない職員が出始めたんです。
私自身は「なんとしても病院の赤字を削減するんだ、まずは地域の患者さんを最優先して病院経営をするんだ」という覚悟はできていましたが、全ての職員がそういう共通認識を持てていたわけではなく、このままのやり方では続けられないという事態に直面しました。
また、間の悪いことに2006年4月の診療報酬の改訂も職員の流出に追い打ちをかけました。当時の宍倉病院では「入院患者15人に対して看護師1人」の看護基準を採用していましたが、新たに「入院患者7人に対して看護師1人」という新基準が導入されたのです。7対1の看護基準では診療報酬上かなり優遇されるため、採用医療機関の看護師の給料が高くなり、より待遇が良い大病院に人材が移動し始めたのです。
当時は、月8~10回ほどまでに回復していた二次待機病院も半分に制限したり、長時間かかる手術を減らしたり、可動ベッドも10床ほど減らしたりと様々な手を打ちました。ところが当然これは、収入を減らすことにもつながります。
職員の待遇を考えれば病院が立ちゆかず、病院の稼働率を上げれば看護師が辞めてしまう。完全に悪循環に陥って、まったく先が見えませんでした。

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